Interview with Chen Zhe: To Reach Endless Minorities
チェン・ズ インタヴュー:エンドレス・マイノリティへと届けるために
松本知己
2018/9
東京都写真美術館で開催中の展覧会「愛について アジアン・コンテンポラリー」(〜2018年11月25日まで)に参加している中国・北京出身の作家チェン・ズは、国内外で数多の受賞歴があり、いま一番注目されている中国人作家の一人。自身の自傷行為から発展させていった作品「蜜蜂(Bees)」と「我慢できる(The Bearable)」は、とても個人的な要素を含むものであるが、それは多くの問題を抱えたこの社会との繋がりも強く意識させられる。日本では初めての展示となる今回、彼女自身について、作品について話を聞いた。
IMA:国内外で精力的に展示をしてきていますが、今回日本での作品披露は初めてになりますね。
CZ:そうですね。訪日するのも初めての機会になりました。世界でも数少ない写真専門の美術館で展示できることを光栄に思います。プロフェッショナルな環境での展示はなかなか多くはないので恵まれていると感じています。少し驚いたことに、日本では少なくない人に「若い」といわれました。よく見ると、今回のグループ展(「愛について アジアン・コンテンポラリー」)の参加作家の中では一番年下で、唯一の20代だったんですよね。ただ、自分は特に若いという意識はありません。中国では、自分より年下の作家と展示することはよくありますし、中堅の作家である意識でいました。ですので、今回は少し新鮮な気持ちもあります。
IMA:今回展示している作品について、ご紹介いただけますか?
CZ:今回、東京都写真美術館では、「我慢できる(The Bearable)」と「蜜蜂(Bees)」の2作品を展示しています。この2つのシリーズを説明する際には、自傷行為が目立つポイントになるかもしれません。いまはしていませんが、私もある時期していたことです。自分にとっては、行為に及んでいた時期についても自分の人生の中でとても大切な時間であったことは間違いありません。
「我慢できる」はその時期の私についての自叙伝のようなドキュメント作品です。写真を始めた2007年頃から2010年までの、ロサンゼルスで写真を勉強していた頃のものになります。ある種、日記をつけていたように写真を撮っていました。「作品を作ろう、これはプロジェクトだ」という意識はなく、自分の生活における出来事を集めていった結果出来上がったものと言えます。タイトルの「我慢できる」はフランスの詩人ランボーについての映画の「我慢できない唯一のことは、この世界において我慢できるすべてのことだ」という言葉からとりました。
「蜜蜂」は、準備をして挑んだ作品になります。自分と近い経験した人たちに届いて欲しいと思ったものでもあります。そして、そういった方々を取材して制作しました。自分たちの心と身体の関係性について自分でも探ってみたいと思い、それについてまとめたシリーズです。2010年から2012年にかけて制作しました。「蜜蜂」はラテン語詩人のウェルギリウスが『農耕詩』の中で、終いには死んでしまうにもかかわらず、針を刺すことで自己防衛するミツバチのことを描写しているのですが、私はそのミツバチの行為こそが自分のテーマに近いのではと考えました。自分のきれいな身体を傷つけることで自分の人生を守っていたように。だからこそ、このシリーズを「蜜蜂」と名付けました。
IMA:展覧会会場では、額装されたプリント作品とともに作品集『Beas and The Bearable』そのものを展示しています。作品集には、写真に限らずたくさんのテキストも収載していますね。言葉と写真が絡み合うように製本されているのもとても印象的です。言葉については、どのようにお考えですか?
CZ:言葉は写真と同じようにとても大切なものにで、言葉と写真は自分にとって等価なのです。今回は作品集を展示するという方法を採用しましたが、今までの展示では言葉を壁に貼りだすこともしましたし、言葉とともに作品が存在してきました。
「我慢できる」は日記をつけるように写真を撮っていましたが、同時に言葉もたくさん残していました。それは、当時のことを構成する上で不可欠なものですし、だからこそ作品が豊かになると考えています。それゆえに作品集では、日記に始まりメモ、手紙、友人たちとのチャットなど多くの言葉を収載しました。
また、「蜜蜂」と「我慢できる」はつながっている作品群でもあるので、それら2つを1冊の本としてまとめました。それを効果的かつ魅力的に見せるために、編集者やデザイナーとどういうかたちにするかを話し合い、あのようなかたちになったのです。日本語がないことはすこし悔やまれますが、ぜひ手に取って読んでいただきたいです。
IMA:この2作品は、チェンさんのとてもパーソナルな一面を見せている作品です。そのような作品がどのように届いているのか、とても気になります。今までお客さんから反応はどのようなものがありましたか?
CZ:個人的な要素を含む作品ではありますが、社会との繋がりもある作品だと思います。いままで、展示を見たり、作品集を手に取った方からメールなどで感想をいただいたことも多々ありますが、ひとつ例をあげたいと思います。私と同じく過去に自傷行為をしていた方でしたが、いまは家族を持っているらしいのですが、将来自分の子どもがその過去について知るときが来る、その想いについて打ち明けた内容のメッセージをいただきました。自身を晒している作品を発表している自分にとってもこのことは同じです。自分の作品を通じて、似た境遇の人とつながったのです。
自分は、自分の作品が“エンドレス・マイノリティ”に届いて欲しいと願って作ってきました。どんな立場のマイノリティも「これなんだ」と固定されるものではなく、マイノリティの中にもまたマイノリティはいて……そういう方は限りなくこの社会にいると思います。自分の声、自分の作品がどこまで届くかはわかりませんが、そうした立場の方々に届いたら何よりです。
作品の発表の方法については、展示だろうが作品集だろうが優劣はありません。展示は基本的にはその場限りではあるものの、空間が持つ強さを表現できます。作品集は、写真やテキストを多く収載できるし、何よりいろいろなところへ広がっていってくれます。そして、残り続けてくれます。作品が自分の手を離れ、さまざまなところへ歩き出し、あらゆるところで存在してくれていることを実感します。作品そのものがその人生を歩んでいるというか。それは本当にありがたいことですし、作品をつくる立場としてとても嬉しいことです。
IMA:自身と社会との関係性を探っていく作品作りはより広がりを見せていて、以前の展示風景などを拝見すると、写真のみならず、彫刻などさまざまなものを展示しています。「写真家(photographer)」と呼ぶことはふさわしくないように思いますが、ご自身のことをどのようにとらえていますか?
CZ:ある時期までは……そうですね、「我慢できる」を終えた頃の2012年くらいまでは「写真家」であったと言えるかもしれません。実際に私が手がけていたものは写真でしたから。ただ、それ以降、イメージを扱う作家といったほうがよいと思います。イメージのほうが写真よりも概念として大きな枠にあると思います。私はそれと向き合って活動しています。
「我慢できる」を終えた2012年から「Towards Evenings: Six Chapters」という作品に取り組んでいます。このプロジェクトは、10年はかかると思いながら今も取り組んでいます。計画では2022年に終える予定ですが、今の調子だともっと時間がかかるかもしれません(笑)。今までにこの作品の断片である作品群を発表してきましたが、今までのような写真やテキストだけでなく、彫刻作品や音など、さまざまなものを組み合わせた展開をしました。
IMA:今まで影響を受けたものや作家、また今回の日本滞在で気付くものはありましたか。
CZ:影響を受けた作家は、その時々で違っています。学生のときはロバート・メイプルソープといった写真家をよく見ていた時期もありましたし、同じ学校(ロサンゼルスのアートセンター・カレッジ・オブ・デザイン)に通っていた杉本博司の作品も気になっている時期もありました。最近は、レバノンのワリッド・ラードといった作家をよく見ています。リサーチを丹念に行っていて、イメージをとても魅力的に扱っている作家だと思います。
また、今回の滞在では、先日根津美術館に行ったときに見つけたものでとても素敵なものがありました。「つくばい」です。そこに流れる時間はとてもゆっくりで、また水の音が響き、また無駄のない姿に心を奪われました。このとても忙しい生活のなかで、想像を膨らませるものでした。
IMA:最後に、作品を通して伝えたいことはありますか。
CZ:私の作品について理解できることよりも、感じてもらえることを大切にしてほしいです。